デザインの初心  「スケッチ」

 学生の頃

 先日、表紙がぼろぼろで色もあせた大学時代のスケッチブックの束が出てきました。ページをめくりながら当時の思いに耽るというよりも、そこに描かれた円錐や円筒を組み合わせたカタチに、最近デザインしたものと共通したカタチがあることに驚いたのです。二十歳の頃すでに自分のデザインの原点があった事を改めて感じたのです。
 しかしこのスケッチが「屋外彫刻」や「卓上のオブジェ」の為に描かれたものであれば良かったのですが、この時与えられた課題は「段ボールを使った子供の遊具」でした。それに対してわたしは、段ボールでは作る事が難しそうなカタチを多く描いています。
 そしてなにより抜け落ちているのは「子供が楽しむ」という事に対してなにも答えを出していません。 手荒に遊んでも壊れないか。安全性は大丈夫か。飽きのこない遊びを生み出されるかたちになっているか。そういう「遊具」としての回答は、そのスケッチには見られません。
 そのギャップはどこから生まれるのかといえばプロダクトデザインが「自分のカタチを生み出す」というだけでなく「使う人の望むカタチを作る」仕事だという認識が抜け落ちています。そういう客観的な視点と説得力を持つ為にはまだ時間が必要でした。
 自分のカタチ・デザインがまわりに理解されない。まわりで良いと言われているものに納得出来ない。そう感じている人は大勢いる事でしょう。わたし自身もそういう青年の一人だったように思います。
 しかしまわりに理解されないというよりは、自分がまわりを理解していなかった。そういう問題点をこのスケッチは示しています。

 会社員の頃

 卒業後オーディオメーカーに就職したわたしは、製品をデザインするために、大抵一課題に一冊のスケッチブックを使っていました。
 毎日同じようなかっこうをしたアイディアをこれでもかこれでもかと繰り返し描いていました
 それは自信のなさの現れです。スケッチ自体に自信を持てても、それが製品になったときを考えると、なかなか絵から図面に模型に飛び出す勇気がなくて、ひたすらスケッチブックの中で助走を繰り返していたのです。当時先輩によく言われていました。『君はアイディアスケッチだと、かっこいいけれど、図面化して模型になると最初のスケッチの良さがどんどんなくなるね』
 三年が経つ頃にはアイディアスケッチを描く枚数がすっかり減るようになりました。
 その変化は、経験によってスケッチと製品の隙間が狭まっただけではありません。スケッチを描く前に対話の必要性を強く感じるようになったからです。企画者の考えているプランを聞く、設計者の音に対する思いを聞く、今発売されている製品を調べる、そういう行動にこそカタチの原型が見つかると思ったからです。アイディアに困れば会社を出て秋葉原へ行って雑誌で見た製品を見て質感や音を実感するようにしました。
 机の上だけで描いていては「狭い角度のバリエーション(変化)」しか生まれてこないのです。仕事の要求に応えるには「相手の望むもの」「世間でいまスタンダードなもの」「自分がしたいもの」少なくともこの三つの角度(視点)をもったスケッチをしなくてはいけないと気がついた時でもありました。やっと「人の望むカタチを描く事の重要性」に気がついたのです。

 そして今

 アイディアスケッチはつまるところ『カタチの速記』です。思いついたデザインをいかに早く特徴だけ捉えて描き留めるか、その一点に集約されます。上手く描いたり、丹念に描いたりする必要はありません。自分が分かりさえすればいいのです。
 今わたしの仕事場には、子供の落書きみたいなスケッチがホワイトボードに残されています。しかし頭の中にはそれらの完成した姿が浮かんできます。
 デザインの作業がコンピューターによって置き換えられるようになった事が、かえってスケッチを楽しいものに変えてくれました。自分が好む直線と平滑な面で構成されていたシンプルなカタチはコンピューターによって描くのに向いていたからです。
 昔は「簡単すぎるカタチ」をスケッチで説得することは難しかったのです。実際には、単純なかたちであっても製品になると、まわりの環境や光によって思いのほか複雑な見え方をするのですが、その事を絵で伝える事が難しかったのですが、3Dによって相手(発注者)にもそして私自身も完成した姿を早い段階から見られるようになった事は大きなメリットです。
 実際の製品と同じサイズの模型を作り、使い勝手を検証する重要な作業。そういうバランスのとれた時間の使い方ができるようになったのもスケッチに割く時間が短くなったからです。
 だれが使ってどんな材料で作っていくらで売るものか。
 そういう背景を考えるようになった今でも、学生時代スケッチブックにあったようなカタチを描きます。そこの部分はちっとも変わりません。

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