デザインの初心 「自信」
自信は、わく時には甘く消える時にはにがい。
おすすめ
例えば、クライアント(依頼主)にデザインを説明するとき、自分が「自信作」と思えるものだけ丹念に色をつけて仕上げたり、スケッチ画の一番上に置いたりまたは一番下に重ねたりと工夫をします。なんだか笑えてしまうとても微笑ましくてささやかな「主張」です。
それを相手がめざとく見つけてくれて『ははあ、このスケッチが今回一番のおすすめ(自信作)ですね。ほんと判りやすい人なんだから。』と言ってもらえると、なんだか相手とのコミュニケーションがちょっと進んだ気がします。
これとは逆に全部同じように描いてクライアントの人から『どれがおすすめですか?』と聞かれて『うーん。全部自信作。どれでもいいですよ。』と言ってしまったらなんだかその場がしらーっとしてしまいます。全部良くない場合に限ってこういう表現になったりするわけです。
自信がある時には人は自信を口にしないし、自信が無い時には反対にその言葉に助けてもらおうと思う。なんだか漠然と見ていた時と違ってこの言葉は、案外ふわふわして身体をしっかりささえてくれない浮き袋みたいな存在なんですね。
相対的
悩んでいる人を見ると『もっと自信をもったらいいのに』とか『そんなに自信を無くしていたら出来る事まで出来なくなるよ』とアドバイスの言葉をかけたりします。
わたしもかつてそうやって友人や後輩を励ましていたように思います。
人は相手が自分より不安そうで頼りなげな様子を見るとついついそう声をかけたくなるものです。
その心理を探るとそうやって激励をしているとなんだか自分が相対的にちょっと自信を持って生きているような気分になってきたりします。
でも相手が「自信を無くした」のは漠然とした気分で無くしたのではなくて、ちゃんとその人なりの理由があるものです。ひょっとすると数時間前までその人は「自信満々」だったかもしれません。
その「無くした」理由についてちゃんと話を聞いてあげて、気持のいい返答をすればまた元の自信が蘇る可能性が充分にあります。しかし困った事に相手が自信を取り戻したら、今度は励ましていた人が、反対に自信をだんだん無くしていったりもするのです。
自信という言葉は、身体をしっかりささえてくれないどころか、相手ともどもシーソーみたいに気持を上げたり下げたりすることになる、まことにやっかいで不思議な存在です。
足らない自分をみとめる力
やっかいといいながら長い間「自信」という言葉には、わたしはほんとにお世話になり続けてきました。そして今も。
こんなに長い時間付き合うつもりもなく「四十にして迷わず」という格言にあるようにこの年になれば確たるものが身に付いていくものだと思っていました。
しかしながら世の中は動いています。これまでにあったものを消化してもまた別の問題が生まれて来て、つかまったはずの自信もあてにならずにぶくぶく沈んだりしています。
そんなふらふらした状態の中で得たのは、自信というものは自分の全体に持つものではなく「持ちたい部分」だけそう思えれば良いのではないかという事です。完璧でなければ持てないものではないのです。多少得意で好きな部分だけ持てれば充分にしあわせなのだと思うのです。
すべてについて自信は持てない。そう気がついたときに漠然とした自信と言う言葉は、曖昧な存在から小さいけれど確かな質量をもってすっと身体の中に入ってきます。浮く為のものじゃなくて流されない為の重りなんですね。
『わたしは自信がありません。』そうきっぱり言い切れる人から感じられる正直さと、人としての強さそして「重さ」を感じるのはそういう背景があるのだと思います。