デザインの初心  「経験」

 どれだけ経験を積んだかは本人のものにすぎません。
 それよりもこれから経験する事にスケッチブックの一枚目のように真っ白な紙を用意していたいのです。

 ずっと経験という言葉が怖かった。

 若い頃、たとえそれが一年の差であっても、私が望んでも体験できない過去の出来事を知っている人の口から発せられる「経験したんだよ。」という言葉は、とてつもなく大きく重いものでした。
 その未知の経験の怖さからか、人生の先輩たちが歩んだ道を、私も歩む事になりました。
 大学へ行かなければプロダクトデザイナーにはなれないと思い、大学へ進学し、大学を出ただけではフリーランスにはなれないと思い企業に進みました。そしてフリーランスとして独立して、ちゃんと食べて行けるだけの仕事が来るようになるには、有名な会社出身でなければいけないと思い転職もしました。
 一見「キャリア(上昇)志向」にもうつるかもしれませんが、その反面、道を外れるような力も勇気もなかったというのが本心です。
 ほんとうに自分に自信と確信があれば学校を出てすぐになにか自らデザインしたものを世に問うたかも知れません。デザインの良い悪いとそういうキャリアは、本来関係はないのだと今なら言えるのです。すべては経験への不安が選んだ道なんだと思います。
 この頃、やっと経験への不安な気持ちから抜け出すことが出来るようになってきました。(いろいろな不安はまだまだあります)そして実力のある若い人達にはそういう「自分の弱さ」をお話するとともに、転職や独立を応援するようにもなったのです。

 経験がすべてではないと経験的に言えるようになった。

 「個人で経験できることには限界がある」と思うのですね。
 私が通った大学、そして社会人になって経験したふたつの会社にも、見た事の無い場所や部屋がたくさんあります。同じ学校や会社に通っていても一度も話をしたことがない人、それどころか会った事も無い人が大勢います。自分が入る事が許された場所、話をした人は全体からみればほんの一部でしかありません。
 それゆえ「あの大学はこうだった」とか「あの会社はこういうところだ」と断定的にお話しする事がわたしにはできません。つまり「経験」しても「経験を語れない」のです。
 同じ土地で同じ言葉を使う日本ですらそうですから、ましてや外国の街ではもっと難しい。パリがどうかニューヨークはどうかソウルは香港は。何度それらの場所にいってもわたしが見る事知る事ができるのはほんの一部でしかありません。

 良い人にたまたま出会えば「良い場所」という経験が残り、その逆の経験をすれば、その街その国全体が嫌になるでしょう。

 でもそれは全体を語る資格にはなりません。

 だから私は「ヨーロッパはどう、アメリカはこうだ」という大きな塊で言う人の話はたとえその地に十年居ようが二十年居ようが信じる事が出来ません。住めば住むだけ「わからなくなる」。そういう気持ちこそが「正直な感想」ではないかと思います。

 しかしこうやって「信じられない」という言葉を、書いたり言えるようになるには、残念ながらそこに行って自分で見て感じた経験がないと説得力に欠けるのもまた真実です。

 同様に私は「プロダクトデザイン」という土地の長年の住人ではありますがこの町についても、総括的にお話をうまくすることができません。今も常に町は変化をしているし過去もまたその評価を刻々と変えています。結局この場がなんなのかよくは「わからない」のです。

 経験は相手と共感するためのパスポートです。

 最近になって、昔の芸術家や建築家の自叙伝を見たり読んだりするようになりました。そしてその人物たちが経験した事、どうそれに向かったか。そのことに、とても共感や感動を覚えるようになりました。それはまったくわたしにとって不思議なことです。若い頃、人の経験に学ぶという気持ちはほとんど持っていませんでしたから。「伝記」や「経験」といった類の本を手にしてきませんでした。
 「経験から卒業」することにした。そういう心境の変化をしたこの頃になってはじめて人の経験に耳を傾ける余裕が生まれたのかもしれません。

 そこには何十年も昔で環境も職種も異なるにもかかわらずまったく今自分が直面している出来事と重なり合うような事が書かれていたりします。

 ちょっぴり『もっと前に読んでおけばよかったなあ』と思ったりもしますが、きっと昔に読んでいてもそこに書かれている言葉の真意は理解できないし共感もしなかったでしょう。

 これはいかんともしがたいことです。

 経験は、学ぶものでも怖れるものでもなく、じっくりとしみじみと多くの人たちと共感を持つ事の出来るパスポートのように感じています。
 経験は、普通うまれてから今までその人のスケッチブックの後ろに描き足されています。わたしは逆にどんどん上に重なって「今」という瞬間には、いつも真っ白な紙を用意してあるようなそんな在りようでいたいと思っています。

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